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スカイツリー周辺
ある時、暴風雨の際にイチョウの枝が飛んできてこの地に刺さり、いつの間にか亭々(ていてい)とそびえたので、時の人が瑞兆であるとして稲荷神社を祀ったとも言われます。別の言い伝えによると鎌倉幕府の滅亡後、北条氏の一門が逃れてこの地に転住し、稲荷大明神を奉祀したのに始まるとされています。 また、言い伝えに残る飛木稲荷の大イチョウは樹齢500~600年と言われています。区内では江戸時代から残るイチョウは4本しかなく、その中でも最古の木と言われています。 戦災では一部を焼失し樹勢が衰えた時期もありましたが、現在では復活してきました。
延元年間(1336~)より祀られていたと云われている向島牛嶋神社の末社。一説には京成橋付近で川が増水して堤防に押上られてあった御神体を安置して祭ったとも伝えられています。もしかしたら押上の地名の由来?かもしれません。
安永3年(1774)能勢頼次は故郷の能勢(大阪府)から妙見大菩薩の分体を移し、当時ここにあった下屋敷に安置しました。妙見大菩薩は日蓮宗の守護神で、江戸っ子には開運厄除けの神として信仰を集めました。震災と戦災で焼失しましたが、昭和28年から15年を費やして再建されました。勝海舟が子供のころ犬に噛まれて重傷となった居りに、父小吉はこの妙見堂で水垢離をして息子のケガが平癒することや出世を祈ったころから、勝海舟晩年の胸像があります。
かつて“本所の閻魔様”と呼ばれて親しまれていた、えんま堂が門の右側にあります。災害の都度、作り替えられてきました。現在のものは戦後に作られたものです。参拝者が来るとセンサーが反応して、照明が付くようになっています。華厳寺の西の辺りでは、日本画家の巨匠結城素明が生まれています。
飛木山普門院といい、かつて浅草寺(台東区)末の天台宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。良秀法印を開山として、応仁元年(1467)に創建されたと伝えられています。 「明暦二年」銘地蔵像は左手に宝珠、右手に錫杖を持ちますが、錫杖の一部に損傷はあるものの、ほぼ原形の姿を保っています。尊像の顔容は童顔に満ちており、造形的に引き締まってもおり、江戸初期の佳作にふさわしいものです。区内で確認されている近世石仏の最古の例として、非常に貴重なものです。
日本画の大家狩野元信の墓があります。狩野元信は、文明8年(1476)狩野派の始祖正信の子として京都に生まれました。父の跡を受けて足利将軍家の御用絵師となりました。父に学んだ宋元の画風の上にさらに大和絵の技法を入れて、力強い日本的な画法を大成しました。彼の様式は後の狩野派の規範とされ、後世「古法眼」と俗称されています。 本法寺の元信墓碑は高さ109cmで正面に「善巧院殿元信法眼日到大居士」左側面に「永禄2(1559)」10月6日歿狩野元信」、右側面に「昭和30年10月再建 狩野文」とあります。なお、当時には各狩野家関係の墓碑が多くみられます。
天正元年(1673)日?上人によって創建されて以来、柳島妙見と呼ばれて江戸時代から信仰する人が多かったお寺です。境内には江戸城の鬼門よけとして置かれた妙見堂と松の古木がありました。また、葛飾北斎は妙見菩薩を信仰、法性寺を題材とした「柳島妙見堂」「妙見宮」等の作品を数多く残しているため、鈴木日意住職鈴木日意住職により葛飾北斎の顕彰碑が建立された。
曹洞宗で駒込吉祥寺(文京区)末で山号を牛島山といいます。天文10年(1541)吉祥寺の2世大洲安充の創建としていますが、「寺社書上」では延徳3年(1491)の起立としています。本尊釈如来木像、十一面観音、無尽地蔵菩薩、大般若軽600巻などが有名でした。当寺は、朱塗りの寺門があるので江戸時代から「赤門寺」と通称されていました。
元和元年(1615)浅草森田町に起立した日蓮宗の寺で、開山は新如院日理上人とされています。その後、寛文7年(1667)現在地に移転し、「押上の普賢様」といわれました。近くの法性寺末です。プロ野球で有名な王貞治氏の生まれたのもこの寺域の一画です。また「東海道四谷怪談」で知られる鶴屋南北の墓がある。
社伝によると、応仁2年(1468)創建と伝えています。祭神は高皇産霊神で、古くは第六天社と呼ばれてましたが、明治初期に高木神社と改称したといいます。 乱石積みの上に安置されている「弘化二年」銘狛犬は左右同形で阿・吽の区別がありません。左側の狛犬の銘文から、外神田平永町代地の白鼠屋藤七等が奉献したことがわかります。
臨済宗妙心寺(京都市)末で、寛永3年(1626)の創建です。開山は法光明幢禅師、二世は黙宗和尚とされていますが、事実は黙宗和尚の創建で、後に師の明幢禅師を招いて開山したものと言われています。江戸時代には寺内の芭蕉堂によって著名な寺院でした。はじめ定林院と号していたのを延享2年(1745)に芭蕉山桃青寺と変えたのも松尾芭蕉の俳号桃青の2字によったもので、芭蕉は当寺に寄宿すること数年に及んだといわれ、「芭蕉わらじ脱ぎの寺」とも呼ばれています。
両国
万徳山徳宝院と号し、かつて京都醍醐寺三宝院末でした。慶長15年(1610)、小石川鷹匠町に創建されました。幾度かの移転の後、元禄2年(1689)2月、新開地である本所の現在地に移ったものです。のちに根来寺の末寺となっています。
杉山検校は若い頃失明し、家が貧しかったので一念発起、江ノ島の岩窟で断食祈願し、満願の前夜、夢に弁財天により鍼術を感応、その後寝食を忘れて修練し、ついに杉山流の鍼術を創始しました。のちの5代将軍綱吉に針治療を奉り、本所一つ目に方1町の土地を拝領しました。ここに総録屋敷をたて、その西となりに弁財天の1社を建立したのが始まりです。
もとは神田の和泉橋付近の名主河村徳右衛門の屋敷神だった稲荷が元禄6年(1693)に移転されました。武家屋敷が立ち並ぶ地域であり、その面影を残す場所として貴重なお稲荷さんです。戦前は都内でも有数の縁日で知られていました。
本所両国を象徴する寺院です。江戸の町500余町を焼失し、100万人を超える死者を出したという明暦3年(1657)正月の大火、俗にいう振袖火事の後、惨状を目のあたりにした将軍後見役の会津少将保科正之から合葬の指示がありました。その結果、本所牛島新田の地60間四方(約3,600坪)が下付され、貴賎の別なく死者を埋葬しました。これが今の諸総山無縁寺回向院の始まりです。 回向院はその後、江戸市中すべての無縁仏を埋葬するようになりました。回向院を参る人々で両国橋周辺は賑わうようになり様々な店舗・演芸等が集まる場所となりました。
かつて当社の東側に相撲の高砂部屋があり、明治18年(1885)親方であった高砂浦五郎の尽力で、元津軽家上屋敷跡に相撲の神様として知られる野見宿禰を祀ったのが起こりです。境内に歴代横綱の名前を刻んだ石碑が建ってます。
このあたりは、榛馬場とよばれた馬場のあったところで、東西102間(約185m)南北12間(約22m)ありました。馬場を囲む土手に大きな榛があったところから、この名がつけられたのでしょう。この馬場は本所に住む武士の弓馬の稽古を目的としたものです。この馬場の傍らに祀られていたのが榛稲荷神社です。この神社には天保8年(1837)亀沢町の若者中が奉納した1対の木製朱塗りの奉紙立が現存しています。
臨済宗、京都妙心寺末で、慶安年間(1648~51)に僧東鉄が本郷に創建して、東光山乾徳寺と号しました。牧野越中守成儀を開基、西江和尚を開山とします。その後、天和2年(1682)に焼失して廃寺となりましたが、元禄4年(1691)2月に牧野備後守成貞が本所の地に7,134坪を下屋敷として給せられ、翌3月9日にその一部を寺に寄付し再興されました。
江戸時代初期、本所・深川の開発事業を指揮した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡に残された屋敷神を祀っています。万治3年(1660)、幕府は明暦の大火における反省から、隅田川以東の開発に着手することにしました。こうして奉行に任命されたのが五兵衛と山崎四郎左衛門重政の二人でした。無事開拓を終えた結果、本所・深川の広大な市街地が誕生したのです。
錦糸町
長禄2年(1458)江戸平河(千代田区)の地に創造されたと伝えられています。当時の江戸城主太田道灌が日住上人に助力して一寺を建立し、本住院と号したといいます。大永4年(1524)に至って道灌の孫に当たる資高が、父資康追善のために堂舎を造営し、寺号を平河山法恩寺と改めました。さらに江戸開府以来、数度の移転を経て元禄元年(1688)に現在地に寺地を定めたものです。
田螺稲荷神社には、ひとつの逸話があります。ある時、大きな火災がありました。周囲の家が次々と燃えていくその時、稲荷の社殿に多くの田螺がびっしりと張り付きました。おかげで田螺は焼けごげても、社殿は火災から免れました。以来、人々は霊験あらたかな稲荷として厚く信仰しました。
「本所に過ぎたるものが二つあり、 津軽大名と炭屋塩原」で有名な津軽藩中屋敷の跡です。中屋敷とは郷土の産物を保管したりする大名の私邸のことで、津軽藩は墨田区内にいくつかの中屋敷を持っていました。明治時代に屋敷を撤収した後は陸軍が兵士の食料を保管する糧秣廠を設置し、この稲荷だけが残されました。家には守護神として屋敷神(稲荷)が必ず祀られました。屋敷神は土着性が強く、他に移動しませんので、置いて行かれることが多いものです。この稲荷もそのひとつでした。なお、目の前を走る道路にはかつて南割下水と呼ばれる堀割が流れていました。ここは区内にいくつか推定される、おいてけ堀推定地のひとつでもあります。
向島
貞観年間(859~879)頃、慈覚大師が一草庵で素盞之雄命の権現である老翁に会い、牛御前と呼ぶようになったと伝えられ、かつては隅田公園に北側にあったのが公園の工事のため昭和7年に現在の場所に移りました。本所の総鎮守として知られ、9月15日には例大祭が催されています。境内の「撫牛」は自分の悪い部分と牛の同じ部分を撫でると病が治るという信仰で、肉体だけでなく心も治るという心身回癒の祈願物として有名。他にも本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居(三つ鳥居)と「狛牛」があります。
文和年間(1352~1356)近江国三井寺の僧が巡礼中に当地で荒れた祠を見つけ、修復しようとしたところ、地中から壺に収められた白狐にまたがる神像を得ました。すると何処からともなく白狐が現れ、この神像の回りを三度回って消えたという故事に由来します。俳人宝井其角「雨乞いの句碑」は有名で、元禄6年(1693)の江戸のかんばつの際には、俳人宝井其角が句を詠み奉納すると翌日大雨が降り、人々を救ったと伝えられます。
正応2年(1289)創建と伝えられ、後に静岡の秋葉権限を分祠して相殿としました。元禄15年(1702)別当を造営し、地域でも著名な神社となりました。江戸時代には鎮火の神として諸大名に崇敬され、特に大奥から厚く信仰されました。11月18日には鎮火祭が行われますが、紅葉の名所としても知られています。7基の石燈籠のうち、6基が区の登録文化財に指定されています。
山号を梅柳山といい、天台宗に属する墨東第一の名刹といえます。開山は忠円阿闍梨により平安中期の貞元元年(976)に開山された天台宗の名刹で、古くは梅若寺又は隅田院とも称されていました。明治維新の廃仏棄釈によって廃寺となり、梅若神社となっていましたが、明治21年(1888)、光円僧正の尽力により、仏寺として再興されました。謡曲、浄瑠璃、長唄などでうたわれた梅若伝説発祥の地で梅若丸を祀った梅若塚があり、4月15日には梅若忌が行われます。
天徳年間には今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。狸(たぬき)にまつわる伝承もあることから、多聞寺を一名「たぬき寺」とも呼びました。 多聞寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残です。特に山門は木造茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、区内最古の建造物と考えられます。享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたものです。 また、多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804~1818)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月は七福神巡りで賑わいます。 他にも狸塚や映画人の碑があります。
黄檗宗(本山は教徒万福寺)の名刹。松雲作といわれる釈迦如来像を本尊とし、山門、本堂の屋根などに唐風の建築様式をみることができます。勝海舟も青年時代にこの寺で修行したと伝えられ、関東大震災まで森鴎外の墓もここにありました。鯉魚の大魚板、根付、咳や口中の病によくきく「咳の爺婆尊」などがよく知られ、咳止めの飴を買い求める参拝者が多くいます。
元和元年(1615)頃の創建と伝えられる寺は天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していました。寛永年間(1624~1644)に3代将軍家光がこの辺りに鷹狩りに来た時、急に腹痛をおこしましたが、住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといいます。今も長命水石文や復元された井戸を残しています。十返舎一九の狂歌碑、松尾芭蕉句碑、著名人の墓など多くの石碑が見られます。
天暦5年に慈恵大師が白鬚大明神の御分霊をここに祀ったことを起源とします。祭神は猿田彦命で国土の神、道案内の守神、隅田川沿いの道祖神として信仰されてきました。かつては白鬚の森と呼ばれる緑の美しい場所で向島八景、隅田川二十四景のひとつに数えられていました。江戸の風流人、文化人の詩碑、墓碑などが数多く残されています。
寺島の地名のいわれともなった古刹。江戸時代には霊験あらたかな厄除け寺島大師として有名で、川崎大師、西新井大師総持寺とともに江戸三大師と言われていました。京都智積院末で真言宗に属し、本尊は空海寺自筆の弘法大師画像と伝えられています。この寺の開山については諸説がありますが、鎌倉幕府5代執権・北条時頼の甥にあたる頼助が諸国回遊の折に寺島に一寺を建立し、時頼が鎌倉に創建した蓮華寺を遷したものといわれます(現在は蓮花寺)。
正福寺(しょうふくじ)は慶長七年(1602年)に開基されました。安政大地震(安政二年十一月)により壊滅しましたが、名主坂田三七郎の邸宅寄進により再建され、現在に至ります。 都内最古の板碑があります。板碑は阿弥陀一尊を梵字で刻み、「宝治二年戌申三月三日」(1248年)の銘があるもので、江戸時代に付近の畑から発掘され、後に正福寺に移されたといわれています。 また首から上の病に効験があると言われている「首塚地蔵」が有名です。天保四年(1833年)隅田川橋場附近の浚渫工事の際に、川床よりたくさんの頭骨が発掘されました。関係者は正福寺と共に、合葬し碑をたてて、「首塚」といったと伝えられています。
「水神社」と呼ばれ、かっては樹木が繁茂し「水神の森」とも称され、また隅田川の増水にあっても沈むことがなく「浮島」の名もありました。昔から、河川交通の要衝であり、海運・運送業者の尊崇を集めていました。祭神は速秋津比古ほか三神を主神とし、また水の神様らしく境内には石亀や「船の錨」など、水や川、舟に関するものが祀ってあります。維新の時には社掌矢掛弓雄が大いに社運を盛り上げた模様で、彼の手になる歌碑、記念碑が多数残っています。また、墨田地域に残された伝統芸能「隅田囃子」の活動も、この神楽殿を中心に行われています。
京島周辺
こんもりと茂った森林のある神域を持った名社で、祭神は弟橘姫命を主体とし、相殿に日本武尊を祭っています。 御神木であり、吾嬬の森の「相生(あいおい)の楠(くす)」(連理(れんり)の楠)として有名な楠(くすのき)について、そのいわれ及び霊験を記し、合わせて、吾嬬神社の縁起・日本武尊の東征の事跡などを述べた碑があります。楠は現在枯れて、その根だけが境内に保存されています。
慶長19年(1614)に出羽国(山形県)湯殿山の修験者大日坊が、羽黒大神の分霊を大畑村(現在地)の鎮守として勧請(かんじょう)し、三輪里稲荷大明神と称したのが始まりと伝えられています。2月初旬の初午の日に湯殿山秘法のこんにゃくの護符を授けることから、「こんにゃく稲荷」とも呼ばれていました。
香取神社はこの開拓者の氏神として永万元年(1165)に創建され、以来村の鎮守として崇められてきました。祭神は経津(ふつ)主(ぬしの)神(かみ)といい、武神であると同時に産業開発、開拓の神でもあり、香取神宮(千葉県)の分社です。境内にある由緒ある梅園「香梅園」では多様な梅が咲き乱れ、毎年梅まつりが開かれています。
天文年間、伊豆から逃れてこの地を開拓した堀越公方政知の家臣江川善左衛門雅門が伊勢参詣の折、数々の厄災を8人の僧によって救われ、帰郷後、村人と合力して伏見稲荷大神を歓請し氏神としてまつったのが始まりで「善左衛門稲荷」とも呼ばれ古くは「八(はっ)僧(そう)稲荷」とも称します。旧善左衛門村(明治22年町村制施行により消滅)の鎮守社ですが荒川開削により移転しました。 往時にはこの縁起を万燈にしたてた万燈御輿でにぎわったといいますが長い中断後、近年復活されました。
旧葛西川村の鎮守として、天和2年(1682)に創建されたと言われていますが、文安元年(1444)創建という伝えもあってはっきりしません。 祭神は猿田彦命で、俗に葛西川の白髭神社と呼ばれていました。 本殿横に移された鳥居は三囲神社の二基に次ぐ古さです。
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